ローマ5章

5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 信仰によって義と認められ、神に対する完全さを持っています。

・「神との平和」→「神に対しての完全さ」すなわち、神に対して完全である。

・「との」と訳されている前置詞は、「~に対する」という原語の意味です。平和と訳すために、原意とは異なる訳になっています。

・「平和」→「完全さ」神に対する完全さ。義と認められた程度について、明確にしています。神に対して完全であるのです。

5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

 恵みとは、義とされたことです。それは、信仰によって与えられました。神様は義とされる祝福を用意されましたが、それを受け取り自分のものとするには、信仰が必要です。恵みは、自動的に与えられません。信仰によって受け取らなければなりません。

 そして、その祝福は、義とされたことばかりでなく、望みによる誇りをもたらしました。望みは、将来受けるものですが、神の栄光に与るという望みです。その望みを誇っているのです。

・「喜んでいます。」→「誇りとしています。」成功するための正しい基礎を持っていることの優位点を誇ること。その正しい基礎とは、御言葉に従うことです。それが必ず栄光に与ると知って誇りとしているのです。

5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

 苦難をも誇りとしています。それは、苦難は、不都合な、あるいは意味のないことではないからです。それは、希望を生み出します。希望とは、神の栄光に与るという望みです。人は、苦難を通して変えられるのです。忍耐を持つようになります。忍耐を持つことで、苦難に揺るぐことのない本物の品性が身に付きます。そのように変えられるならば、神様は必ず報いてくださいます。

・「練られた品性」→折り紙付きの品性。すなわち、試験を受け証明された品性。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 そして、このように栄光に与るという望みを持つ私たちが、決して失望に終わることはないのです。それは、私たちの思い込みではないのです。その理由は、神が私たちを愛しておられるからです。愛する者に永遠の祝福を与えようとする神の愛が注がれているからです。

 次節以降に神の愛について記述しています。

5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 キリストが不敬虔な者のために死なれたことは、私たちの対する神の愛の現れです。他の人のために死ぬことはほとんどないのです。しかし、キリストは、罪人のために死なれました。それを計画されたのは神様であり、神の愛の現れなのです。

5:9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

 今、キリストの血によって義とされていることは、神様の愛の現れです。その義は、完全であることは既に見ました。その上、御子を身代わりにするほどの大きな愛で愛しているのです。そのような私たちが神の怒りから救われるのは、なお一層確かなことです。

5:10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

 この和解は、敵であった者との和解です。これは、和解の(平和の)いけにえと関連付けられています。

 御子(原語:彼の御子すなわち神の御子)の死といのちが対比されています。御子の死は、和解をもたらしました。御子のいのちは、救いをもたらします。「救われる」は、動詞直接未来形で、将来与えられるものとして記されています。ですから、いわゆる救いの立場ということではありません。神の栄光に与ることであり御国において報いを受けることを表しています。

 「御子のいのち」は、御子がよみがえられたように私たちも罪に対して死に、新しく生まれた者として聖霊によって歩むものとされていますが、その御子の聖霊による働きのことを指しています。私たちを御心に適った者に変える働きです。御子は、和解のために命を捨てる愛によって愛しているのです。その変わらぬ愛によって働き続けるのです。ここには、栄光に与る保証として、御子の愛が示されています。

5:11 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

 キリストを喜ぶだけでなく、今や神を喜んでいます。怒りを下す神を恐れることはないのです。むしろ喜んでいます。和解させていただいたからです。

5:12 こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──

 一人の人が善悪の知識の木の実を食べたので、善悪の知識が人に入りました。その知識がないときは、何をしても罪にはなりません。しかし、何が悪であるかを知ったとき、責任が伴います。そして、肉に従って悪を行うようになったのです。その悪を行わせる肉の欲に働きかけるのが内住の罪です。それが全世界に入ったのです。その時から人は変わったのです。善悪の知識を持ったからです。

 これは、アダムが神の言葉に背いたという具体的な罪を指しているのではありません。それは、アダムの罪であり、一つの出来事です。それが、世界に影響を及ぼすことはありません。

・「罪」→単数定冠詞付き。内住の罪。犯した罪でない。

5:13 実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。

 律法以前にも、罪はありました。しかし、罪は、基準があって初めて罪と判定できます。良心が人の判定基準として与えられていますが、そのことには触れていません。

・「罪」→無冠詞。罪というもの。

5:14 けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。

 ここでの論点は、影響の及ぶ範囲です。死は、全ての人を支配しました。アダムのように神の言葉に背くことをしなくても、また、基準としての律法がなくても、死は人を支配しました。

5:15 しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。

 そして、恵みと違反の相違点が示されています。違反は死をもたらしました。しかし、神の恵みとイエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ち溢れます。

・「満ち溢れる」→取り囲むということです。

5:16 また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。

 賜物とアダムの罪によってもたらされた罪との相違点について示し、恵みの賜物が優れていることを示しました。

 その賜物は、一つは、多くの違反が義とされたことです。これは救いの立場を示しています。

 裁きの場合は、一つの違反のために罪に定められました。一つの罪であってもさばきをうけ、死ななければならないのです。

 この「一つの違反」ということと、「多くの違反」が対比され、義とされた立場が神の恵みの賜物であることが示されています。

5:17 もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。

 もう一つの対比は、「死」と「いのち」という対比が支配ということに関連して示されています。一人の人の違反による死の支配に対比して、恵みと義の賜物を受けた人たちがいのちにあって支配するのです。「死が支配するようになった」は、アオリストで単純過去です。「死が支配した」です。これは、過去のたった一度の出来事で、継続しません。ですから、一人の違反により、一人によって死が支配したという過去の事実を述べています。人が死んだことを死が支配したと表現しているのです。

 対比して、人々が支配するは、未来時制です。これは、現在のことをいっているのではありません。

 似たような記述は、二十一節にありますが、それは、現在の私たちに当てはめて適用する内容です。ここでは、将来御国を相続したときに、人々が支配することを指しています。御国の相続は、キリストにより、支配します。また、いのちにあって支配します。このいのちは、報いとしてのいのちを豊かに持つ者して支配することです。それは、恵みと義の賜物を豊かに受けていることによります。

 この恵みは、信仰によって神の言葉を受け入れて実現した祝福です。単に救いの立場が与えられたことだけではなく、御言葉に従ったゆえに受ける祝福を表しています。そして、義の賜物は、義とされた立場のことだけでなく、御言葉に従って生きたことによって義の実を結ぶことです。それは、何もしないで与えられることはありません。御言葉に従って生きることで、獲得します。

 なお、訳の問題として、対比が分かり難い訳になっています。原語に沿って訳すならば、「もし、一つの違反によって、ひとり(あるいは一つ)によって死がもたらされたとすれば、それにもまして、たくさんの、恵みと義の賜物を受けている人々は、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」となります。一つとたくさんが対比されています。違反と、恵みと受けている義の賜物が対比されています。死と、いのちが対比されています。このように、原語では、対比が明確ですが、訳がそれを分からなくしています。

5:18 こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

5:19 すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。

 一つの違反と一つの義の行為、また、ひとりの不従順と、一人の従順が対比されています。一つの義の行為とは、一度だけの義の行為ではなく、生涯を通して完全な義であったという行為のことです。たった一つの欠けもない義の行為なのです。これは、行為とありますように、行ったということです。行いで義とされたということです。

 その従順についても、生涯を通して完全なものでした。

 その方の完全な義と完全な従順によって、私たちは、義とされるのです。神様の前に、一つも罪を犯さず、神様の御心に全く逆らうことがない方のゆえに、私たちは、義とされるのです。

5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。

 律法の役割は、「違反が増し加わるためです。」これは、律法が与えられることによって罪を犯しやすくなるということではなく、律法によって罪の基準が明確なり、人の罪深さが明らかになります。それまで気付かないことも、明確に罪として示されることになります。しかし、そのように罪が明確にされますが、その罪が赦されることによって恵みが非常に豊かなものとして示されることになります。「増し加わる」と「満ち溢れる」が対比されています。「増し加わる」という原語に、「ハイパー」という接頭語がついているのが「満ち溢れる」と訳されている語です。恵みは、違反が「増し加わる」ことを凌駕して「遥かに増し加わる」ことを言っています。

 ここには、恵みの偉大さが示されていますが、神の前に自分の罪が分からない人は、その尊い恵みを理解できません。

・「違反」→単数定冠詞付きで、個々の違反ではない。これは、単数定冠詞付きの「罪」と言い換えられています。ですから、同じものを指しています。

 律法との関係は、七章で詳細に述べられますが、律法が入って来ることで、それに違反するように罪が働くのです。規定がなければ、罪は働きようがありません。罪は、何かの基準に逆らうように働くものであるからです。

・罪が「増し加わる」とは、犯される罪の数が増えるということではありません。内住の罪が強く働くことを指しています。

・「恵み」は、罪と対比されていて、これも、単数定冠詞付きです。これは、私たちのうちにあるもので、罪に対して死にキリスト・イエスにあって生きた者の歩みを指しています。新しく生まれた私たちの御霊による歩みのことです。

5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

 この罪は、原語では、単数定冠詞付きで、人のうちに住む罪について記しています。その罪が死によって支配したというのは、その罪の結果、人が地獄に落ちて滅びることを言っているのではありません。この罪の支配を受けるならば、神の前に生きた者として歩むことができないことを言っているのです。すなわち、神の前に死んだ者となるということです。これは、信仰を持ち、罪(複数)を赦されて、救われた信者について論じています。この死は、神の前に生きた者として歩むことができない、実を結ばない状態を言っています。そのような者が、永遠の報いを頂くことはないのです。

 その一方で、恵みの支配のもとにあるならば、義の賜物を頂く者となるのです。これは、義の実を結ぶことをこのように表現しているのです。これは、キリストにより賜るものです。キリストによって義の実を結ぶのです。ここには、まだ記されていませんが、具体的には、聖霊によって義の実を結ぶことを指しています。この時点では、それがキリストによって与えられることだけが示されています。

 ここで、恵みは、信仰によって与えられる祝福を表しています。ここでは、定冠詞付きの恵みで、擬人化されています。手紙の挨拶の中にもこの「恵み」は使われていて、既に義とされた者がさらに神の言葉の中に生きることでいただく祝福を表しています。

 既に偉大な恵みを受けたのです。罪の赦しは、大きな恵みです。そして、さらに神の言葉の中に生きることで、義の賜物を受ける者とされます。それは、御言葉に従って生きることによって与えられるものです。そして、それが永遠の命を受けることとして示されています。これは、救いの立場を受けたことを永遠の命と言っているのではなく、御言葉の中に生きることで獲得する永遠の命を言っています。

 このように、罪を犯したとしても、その罪を赦される恵みをいただきます。そうであるならば、その罪の赦しという恵みが増し加わるために、罪(単数定冠詞付き)の中にとどまって、罪(複数)を犯すこともよいのではないかという考えを想定して、次に記しています。